伊賀忍者回廊第三番西念寺

西念寺

忍者との関わり

浄土宗寺院。『萬川集海』の著者である藤林左武次保武をはじめ、藤林氏の墓所。

由来

『伊水温故(いすいうんご)』によれば、当寺の本尊は天正伊賀の乱の混迷に紛れるようにして、佐那具の西方寺へ移されたといわれる。この西方寺こそが当寺の発祥といわれ、長伝という僧侶が現在地に移し、しばらくは長伝坊と呼ばれたが、その後西念寺に改められた、とされる。当町の北に位置する徳居町の通称「墓の谷」は、廣禅寺の墓地であるように思われているが、元来は西方寺の墓所であった、と『伊水温故』は伝えている。もっとも、これには、『蓮門精舎旧詞』に「開山三蓮社宝誉長老天正13年筒井定次当国入部、此時宝誉従和州随身而立寺、巳心山西方寺、住職廿5年慶長13年筒井氏亡、寺成小寺成(中略)宝誉和州帰」と見られるように、天正13年(1585)に大和国の筒井定次が豊臣秀吉の命により伊賀に入国して上野城を築城した際に、それに付き随(したが)ってきた宝誉上人によって開基され、筒井氏の菩提寺として万町一帯を境内とする大寺容を誇ったとする異説もあり、いずれが真偽であるか定かではない。さらに、長田西蓮寺の過去帳によれば、慶長2年(1597)に「上野西方寺小僧」を、同5年5月14日「三部都法大阿闍梨高遵大徳 上ノ西方寺」をそれぞれ天台宗真盛派寺院に葬ったとあり、佐那具の西方寺は現在も天台宗真盛派であることから、当時の発祥、所在にまつわる諸説にいっそうの謎を投げかける。境内には、伊賀流忍術・藤林(ふじばやし)三武次保武(やすたけ)の墓が現存し、墓石に「光岳院歓誉道喜居士」、「享保元年」(1716)死亡という銘がある。保武は忍術書「万川集海(ばんせんしゅうかい)」の著述者とされ、百地三太夫、服部半蔵とともに、伊賀流忍術の三傑に数えられている。

(著書「伊賀百寺」より)

西念寺データ

本尊

木造阿弥陀如来立像

藤林氏の墓所

 
住所 〒518-0855 伊賀市上野万町2296
連絡先 0595-21-1291
受付の目安
ご朱印のいただき方 朱印状式
ご朱印料 300円

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