忍者との関わり
真言律宗寺院。伊賀惣国一揆の評定所であった。第一次天正伊賀の乱の際、伊賀衆はここから丸山城を攻撃した。第二次天正伊賀の乱で焼き払われる。
由来
伊賀鉄道丸山駅から西方へ徒歩で約10分のところにある。後ろに山を負う一段高いところに境内があり、眼下に木津川が北流し、西流してくる比自岐川との合流点を見下ろす景観の素晴らしいところにあり、山内は堂々とした本堂・山門・鐘楼など名刹にふさわしいたたずまいを見せている。
『伊水温故』は、右馬允入道仏光坊が開基し、その後第62代村上天皇(在位946 – 967)のとき勅願所となり、鑑真和尚が伝えた律宗を説き広めていたが、その後次第に荒廃して旧地のみが残るありさまになった。そのような時に、東福寺で修行をしていた聖一国師が山城国和束に百丈山を創建し、また伊賀国で禅法を広めるためしばらく逗留していたが、このとき当寺に来て四周をみると、あたかも中国の五山の第一にあげられる天童景徳禅寺の美しい景色に似ていると感じ、天童山と名付けたと伝えている。
当寺では、鎌倉時代に伊賀の生んだ高僧応準行然が開基したとしている。行然和尚は貞応元年(1222)三田庄で生まれ(京都東山の東福寺蔵『棘林志』、17歳の時、郡之覚然に従って出家し、奈良の不空院の円晴和尚から沙弥(しゃみ)の十戒を受け、その後京都の東福寺で弁円円爾に師事して修行を積み、文永(1164 – 1275)初年ころ伊賀に戻って当寺を興営したという(『本朝高僧伝』)。行然は弘安3年(1280)67歳で示寂するまで、ここで仏法を説いた。行然示寂後も学僧が方々から集まり、とくに岸和田の久米田寺を継ぎ、京都の金山院に入った後当寺に入寺した禅爾和尚のころには学僧の往来を極め、後の高僧を数多く輩出した。
明徳2年(1391)の奈良の『西大寺諸国末寺帳』に当寺の名が記されていて、いつの日か西大寺末に移っているが、明王5年(1496)唐招提寺五五世となった源祐がそれまで当寺に逗留しており、唐招提寺との関係も深かったと考えられる。
『伊水温故(いすいうんご)』に「本間十三間四方 護摩堂 客殿 庫裏 食堂 鐘楼 以上瓦葺」とあり、その伽藍は偉容を誇っていた。さらに、山内は伊賀地侍衆の集会の場でもあった。ことに、天正6年(1578)織田勢が伊賀攻略の拠点として丸山城の修築にかかると、伊賀勢は木津川を挟んだ天童山に集結し、丸山城総攻撃をかけ落城させた。しかし、その後の同7年・9年の乱に伊賀勢は陥落し、拠点であった当寺も灰燼(かいじん)に帰(き)した。幸いにも本尊阿弥陀如来と聖一国師が中国より請来したという大黒天の二像のみが難を免れた。
(著書「伊賀百寺」より)
無量寿福寺データ
本尊
木造阿弥陀如来像
催事
冬(1月〜3月)
修正会 1月1日
大般若会 1月第3日曜
春彼岸法要 3月21日
夏(7月〜9月)
施餓鬼法要 8月7日
秋彼岸法要 9月23日
住所 | 〒518-0111 伊賀市下神戸5 |
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連絡先 | 0595-38-1044 |
受付の目安 | 10:00〜17:00 |
ご朱印のいただき方 | 略式(セルフ式) |
ご朱印料 | 200円 |
代表的な周辺名所・史跡等
- 丸山城跡