忍者との関わり
真言宗豊山派寺院。伊賀惣国一揆の評定所であった。
由来
1.沿革
寺伝によれば奈良時代の天平勝宝4年(西暦753)、地元服部党の党領、平康氏入道の発願で覚真長老を開基として開山されたと伝える。最も栄えた時代は鎌倉から室町時代にかけた頃で、七堂伽藍を備えた寺であったとも言われている。岡山の麓の村は現在も寺田と称しており、大きな寺領を有していたと考えられる。
歴史上の初出は明徳2年(西暦1391)と古くはないが、奈良西大寺所蔵の「西大寺諸国末寺帳」の中に、伊賀の西大寺末寺12ケ寺の筆頭として記されている。このように戦国時代までは伊賀地方の有力寺院であり、低いとはいえ山中の要害にあったことから、天正伊賀の乱では忍者をはじめ武将たちの拠点の一つとなったようである。
しかしながら伊賀全土が敗戦の憂き目にあい、当山も全ての堂宇が灰塵となり、その後は衰微の一途をたどって現在に至ることになった。
数年前この戦いの報いとなったと思われる遺構が発見されている。それは当時の僧侶や寺族の墓地であり、墓地であっても徹底的な破壊にあったようで、小さな数点の五輪塔の一部が露出してはいたが、斜面の自然石の下部を掘り進めると秀麗な地蔵菩薩像が見つかった。岩に掘られた摩崖仏であったため、破壊はかなわず土で埋められたものと思われ、周りの地面の下には多分多くの墓石が埋設されているものと想像される。このことからも、信長軍の伊賀における破壊と略奪は峻烈を極めたものであったことが伺える。
2.見どころ
そのため大光寺に残されている戦国以前の遺構は全て石像、それも自然石に彫られた摩崖仏である。ご本尊は一寸八分の小さい秘仏の十一面観音で、江戸初期に発願者である平康氏入道の子孫の方から寄進されたものであり、他に唯一阿弥陀如来立像が鎌倉後期造とされている。
石像は前述の最近発見された本堂西方の崖下にある「嶺の地蔵」、大光寺参道にある「北向き地蔵」と中ノ瀬の国道沿いにある三重県下では最大級の大きさを誇る「中ノ瀬摩崖仏」の三体があり、鎌倉から南北朝時代のもので、いずれも三重県の有形文化財に指定されている。この他参道途中や本堂裏手の山頂へ向かう路傍には、数多くの石像や西国三十三観音巡りの石像などがあり、石仏鑑賞の人たちに人気がある。
建物遺構としては参道入り口近くの「行者堂」、境内には本堂と鐘楼堂が残されている。
いずれにしても山中の遺構や佇まいは、「兵どもが夢のあと」を彷彿とさせてやまない雰囲気を感じさせてくれること請け合いである。
(由緒記ほか より)
大光寺データ
本尊
木造阿弥陀如来立像
市指定文化財 (本尊)木造阿弥陀如来立像
催事
冬(1月〜3月)
新春息災護摩法要・初日の出祈願(1月1日)
厄除け初午祈願祭(3月第1日曜)
住所 | 〒518-0004 伊賀市寺田1535 |
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連絡先 | 0595-21-3330(毘沙門寺) |
受付の目安 | − |
ご朱印のいただき方 | 略式(セルフ式) |
ご朱印料 | 200円 |
代表的な周辺名所・史跡等
- 大山田温泉「さるびの」
- 日本シャクナゲのスポット「木の館豊寿庵」
- 鳴塚古墳
- 辻堂古墳
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