忍者との関わり
鶴岡八幡宮末社。徳川家康が伊賀越えの際、伊賀忍者に助けられたお礼に寄進した三河岡崎石の狛犬がある。宝蔵院流槍術祖高田又兵衛修行の地。
由来
伊賀市白樫地区に岡八幡宮という神社があります。社殿の大きさ、規模は伊賀一の宮・敢國(あえくに)神社に次ぐ伊賀でも屈指の大神社です。
白樫地区は、大和の月ヶ瀬に近接する山間のへき地でしたが、なぜ、ここにこんな大神社が設けられたかと、不審に思う人も多いと思います。実はこの神社は、源頼朝公の直命で鎌倉の鶴が岡八幡宮の末社を全国に配置する計画の第一号として、白樫に完成されたもので、当時の伊賀のワクを越えた、日本的発想によって建設されたものなのです。
費用も全額、鎌倉殿(頼朝公)の負担でした。
1189年(文治5)6月、奥州平泉の藤原泰衡(やすひら)に、弟・義経を攻殺させて後、頼朝は泰衡追討の院宣を得て30万の大軍を召集。三道から一斉に奥州に攻め入る準備を調えた上で、源家の守護神である鎌倉の鶴が岡八幡宮に参拝し、戦勝を祈願しました。
その時頼朝は「今度の戦いに勝ち、日本全土を平定した暁には、御礼として岡八幡宮の末社を全国60余国に建立いたします。その第一番に建てる国は、どこの国にいたしましょう」と神の意を伺ったところ、「伊賀の国に建てよ」との宣であったといいます。
頼朝は同年9月、奥州攻略後、岡八幡宮建設計画を立て、神社の敷地を敢國神社がある佐那具から遥(はる)かに離れた白樫の地にとりました。同村猪ノ谷に方四町の神域を設け、鶴が岡八幡宮の第一号末社の建設にとりかかり、翌1190年(建長元)4月にその工事を完了させました。
社名の「岡八幡」は、鶴が岡八幡宮の末社である事を示す略称で、伊賀を最初にして漸次、全国に建設される予定でした。だが、頼朝の没後、中止されたので、岡八幡宮は伊賀の白樫が最初で最後の建設となったのです。
頼朝は、岡八幡宮の初代神主として、鶴が岡本宮の神官豊氏久勝(とようじひさかつ)の弟、勝宗(かつむね)を起用し、下官八人を添えて白樫に送り、定住させました。
そして寺社領田として百石の田畑を寄進、神社経営の基盤も確保したのです。社宝としては、頼朝公直筆の「御縁起 白樫村根源記」、元禄時代の郷土史家菊岡如幻の「岡八幡御縁記」の二書、頼朝公寄進の銅幣(1190年 = 建久元の銘入り)があります。
ほかに徳川家康公、1582年(天正10)伊賀越え帰国の際の神助を謝し、伊賀忍者(藤堂采女(うねめ))に代参を命じ、その折り、寄進させたこま犬の石像一対を(三河・岡崎の産石で製作)などが現存していますが、いずれも希有(けう)の逸品です。
なお、神社の境内では、創建以来、祭礼には必ず流鏑馬(やぶさめ)が行われていました。正月7日には、山神大注連縄(おおしめなわ)(しめ縄更新)、8日には古神道の探湯(くがたち)の行事と弓始め祭りが行われ、珍しい探湯神楽が奉納されます(現在も続行中)。
境内には、徳川三代将軍家光の時代、37歳の若年が亀山城主となった白樫出身の中川甚兵衛重規が奉納した等身大の木彫神馬を納めた堂があります。
この木彫神馬は、戦国末期、白樫出身の槍術(そうじゅつ)の名人・高田又兵衛が岡八幡の境内で近隣の若者たちに槍術を教えていたころ、甚兵衛も又兵衛について槍術を学び、そのお陰で出世できたとしてお礼代わりに奉納したという、大変珍しい由緒のあるものです。
このほか、岡八幡の境内で有名なものは、市の天然記念物に指定されている一位樫(いちいかし)の大木で、樹齢五百年といわれています。伊賀の観光名所の大穴場として、ぜひ、皆さんに一見と拝礼をお勧めしたい神社です。
(歴史作家・奥瀬平七郎)
岡八幡宮データ
祭神
誉田別尊(応神天皇) 外十四柱
季節の花木
市指定文化財 イチイガシ
催事
春(4月〜6月)
春祭 四月十五日
流鏑馬神事 四月十五日前後の日曜日
農休み祭 六月三十日
夏越祭(大祓)茅輪くぐり 六月三十日
夏(7月〜9月)
祇園祭 七月十五日
放生会祭(神事) 八月三十日
秋(10月〜12月)
宵宮祭(長老講) 十月十四日
例祭(獅子神楽) 十月十五日
鈴鳴大辯才天社例祭 十一月二十五日
新嘗祭 十一月三十日
年越の大祓祭 十二月三十一日
冬(1月〜3月)
元旦祭(獅子神楽奉納) 一月一日
山神大注連 一月七日
探湯神事(大宮講) 一月八日
弓始め祭 一月八日
祈年祭 二月十五日
宮の日 三月八日
月次祭 毎月十五日
禊祭 毎月二十二日
萬月祭 萬月の夜
辯天祭 毎月二十五日
住所 | 〒518-1151 伊賀市白樫3638 |
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連絡先 | 0595-20-1828 |
受付の目安 | 6:00〜17:00 |
ご朱印のいただき方 | 染筆式 |
ご朱印料 | 300円 |