伊賀忍者回廊第二十六番正月堂観菩提寺

正月堂観菩提寺

#国指定文化財 #県指定文化財 #市指定文化財

忍者との関わり

東大寺の別院として聖武天皇の時代に建立されたといわれる。島ケ原党天正伊賀の乱の時には、島ケ原党が恭順の意を示したことにより事なきを得たとされる。

由来

『伊水温故(いすいうんご)』に「正月十日ニ大餅ヲ備テ行法有、依名正月堂」とあり、正月堂の呼称は奈良東大寺二月堂との関係説が起こってきた江戸前期ないし中期のことであろうが、江戸時代にはもっぱら観菩提寺もしくは観音とよばれていた。
創建についての古い記録はなく、『伊水温故』『三国地志』や元禄6年(1693)の『正月堂古記』および文化8年(1811)の『正月堂観菩提寺由緒』など江戸時代に成立したものがある程度で、江戸前中期に定着した伝承を伝えている。とりあえずこれらによってまとめてみれば、奈良時代の聖武天皇の時代、良弁僧正の高弟実忠和尚が開基し、その後300年を余を経て荒廃していたのを島ヶ原一族が再興した。弘長年中(1261-1264)正月9日より餅柱を奉献し元弘年中(1331-1334)に一族の武運を祈願して、諏訪明神を正月堂の東北に勧請し、また、後醍醐天皇が笠置寺に挙兵したとき島ヶ原一族は数々の戦功をたて、菊紋の陣幕と太刀を賜った。正平21年(1366)に一族は領地80石を献上、12坊を建立し、繁栄したと伝える。明治16年(1883)の本堂改築の際、須弥壇(しゅみだん)の下から出土した巴瓦・花瓦の破片は南北朝ないし室町初期のものと推定され、正平年中ごろの諸堂建立の伝承はすてがたいものがある。
上野市図書館蔵の『三国地志図譜 阿拝観菩提寺故図』には、本堂・山門を中心として護摩(ごま)堂・経堂・鐘楼(しょうろう)堂・鎮守・東蔵坊・花蔵坊・林泉坊・東ノ坊・西坊・円蔵坊・燈明坊・大門坊・庵など檜皮葺や草葺の諸伽藍が描かれている。諸堂は天正伊賀の乱に、島ヶ原党が恭順の意を示したので事なきを得た(『伊乱記』)とあるが、村内に残る古記には、本堂と山門を残して焼き尽くされたと伝える。兵火によるのか荒廃によるのかは不明だが、寛文3年(1663)に楼門の改修が行われ、その時の棟札によると内蔵坊・大門坊・燈明坊・円蔵坊・西之坊・栄存坊の諸堂があった事がわかる。
観菩提寺の運営は島ヶ原党により執り行われていたことが上記棟札の「奉再興楼門伊州綾郡島ヶ原党普門寺観菩提寺」によって傍証されるが、元禄5年(1892)藩の達しにより嵯峨大覚寺を本山とすることが定められ、その際、大門坊を慈眼院、燈明坊を蓮花院、東蔵坊を無量院、西之坊を西光院と改め、住職はもとより観菩提寺の維持運営は明治に至るまで4か院をもって管理されてきた。

(著書「伊賀百寺」より)

正月堂観菩提寺データ

本尊

木造十一面観音立像

国指定文化財 (本尊)木造十一面観音立像
国指定文化財 観菩提寺本堂
国指定文化財 観菩提寺楼門附棟札
県指定文化財 木造十一面観音立像(2躯)
県指定文化財 木造聖観音立像
県指定文化財 正月堂の修正会
県指定文化財 木造多門天立像
県指定文化財 木造天部形立像(伝梵天像・伝帝釈天像)
県指定文化財 木造広目天立像
県指定文化財 木造天部形立像(2躯)
県指定文化財 鰐口
市指定文化財 木造十一面観音立像
市指定文化財 十三重石塔
市指定文化財 六齊年仏供養四角型石燈
市指定文化財 本尊厨子鎖子
市指定文化財 賓頭虜尊者寄木造半迦座像
市指定文化財 金剛力士像
市指定文化財 古絵図

催事

冬(1月〜3月)
修正会(2月)

住所 〒519-1711 伊賀市島ヶ原1349
連絡先 0595-59-3080
受付の目安 9:00〜17:00
ご朱印のいただき方 略式(セルフ式)
ご朱印料 200円

戻る