忍者との関わり
天台真盛宗寺院。真盛上人遷化の寺院。天正伊賀の乱で亡くなった豪族を鎮魂する記念碑がある。城代家老藤堂采女の墓所。
由来
当寺は大津市坂本天台真盛宗本山西教寺の三大末寺の一つであります。寺伝に據ると延暦24年(805)伝教大師が創建され、明応元年(1492)と同4年に二度真盛上人が御巡錫になり諸堂を復興されたが、二度目の明応4年2月晦日病の為「我れ無き後は志を励まして無欲清浄に専ら念仏を勤めよ」と遺戒され御遷化されました。依って真盛上人の御居間方丈の間へ御遺体を安置しました。
真盛上人は嘉吉3年(1443)伊勢国大仰の里で地蔵菩薩の化身として御生誕になり、長年比叡山に於いて御修行の後戒称二門(行いを慎み、弥陀の名号を称える)の御教えを開かれました。上人は後柏原天皇より円戒国師、明治天皇より慈攝大師の称号を賜り、また、昭和天皇より「慈攝」の勅額を下賜されています。当寺は医王山無量寿壽院また紫雲山とも申しますが、これは真盛上人が御遷化の時御居間の上の五葉の松に7日間紫雲が柵引いたという故事によるものです。
また当寺は比自山の支脈の東に面し、前に木津川が流れ、市街地を一望する高台にあって山紫水明の佳境に位置します。平成6年には墓地36778m2を改葬しました。末寺は伊賀全域と山城大和の一部を入れて30ヶ寺、檀家は長田、朝屋、大野木、木興、旧上野市街地と他府県の散在を併せて千余戸あります。
「春は花秋は紅葉と変われども何時も変らぬ法の華山」と云われています。
(由緒記ほか より)
西蓮寺データ
本尊
木造阿弥陀如来坐像
国指定文化財 絹本著色藤堂高虎像
県指定文化財 (本尊)木造阿弥陀如来坐像
県指定文化財 真盛廟
県指定文化財 紙本墨書真盛自筆消息
県指定文化財 西蓮寺の供養塔
県指定文化財 木造薬師如来坐像
県指定文化財 木造不動明王立像
像高78.9cm、檜材の一本造で、内刳はありません。巻髪(けんぱつ)の頭部から、弁髪を左肩に垂らしています。彫眼、左目を眇(すが)めています。開口し、右牙が上出し、左牙が下出しています。条帛(じょうはく)を懸け、裳・腰布を着け、帯を正面で二重花結びとし先端を長く垂らしています。臂釧、腕釧、足釧を彫出しています。右腕は肘を屈して腰脇で剣を握っています。顔をやや右前に向け、腰を右に寄せ左腰をやや後ろに引いています。躰幹部を一本で彫出し、弁髪、腰布・結び紐など細部に至るまで当初の造形を残した保存のよい像です。
県指定文化財 絹本著色星曼荼羅図
天台座主慶円の作と伝える円曼荼羅の一例です。掛軸装で、縦61.8cm、横42.2cm。四重円からなり、中央円には釈迦金輪、二重円には上辺の小円中に北斗七星、下辺には九曜星を配しています。三重円には小円中に十二宮、四重円には二十八宿を配列しています。画面四隅に花瓶、中央上部に天蓋、下方に玻璃器に挿した供花を配しています。釈迦金輪および地文、花瓶、天蓋には截箔を施しています。背には寛文11年(1671)の修理記が見られますが、平安末期から鎌倉初期にかけての作例と考えられ、非常に古い曼荼羅と考えられます。
県指定文化財 絹本著色地蔵十王図
「地蔵十王図」は死者の亡魂を裁き、その転出先を定める十王と地蔵を描いたもので、南宋から元の時代にかけて盛んに描かれました。本図の「五七閻羅(えんら)大王」幅には「陸信忠(りくしんちゅう)筆」の署名がありますが、当時の中国寧波(にんぽう)地方で活躍したと思われる陸信忠に関わる作品と考えられます。日本には鎌倉・室町期に多数仏画が輸入されていますが、これらは日本仏画に多大な影響を与えました。本図は中国仏画のひとつの典型を示し、また、十王図十幅と地蔵図一幅をすべて揃えたものとして貴重であり、当代中国仏画の水準を理解するのにも貴重な遺品と言えます。
市指定文化財 藤堂采女家歴代墓所
市指定文化財 藤堂元甫墓所
市指定文化財 服部土芳墓所
市指定文化財 西蓮寺蓮葉形銅製水鉢
市指定文化財 西蓮寺石燈籠
市指定文化財 西蓮寺鐘楼門
市指定文化財 伝如来荒神像
市指定文化財 医王山西蓮寺眺望詞并八景吟
市指定文化財 曾我蕭白筆鳥獣人物画押絵貼屏風
季節の花木
春(4月〜6月)
桜
秋(10月〜12月)
紅葉(11月中旬〜下旬)
催事
春(4月〜6月)
二十五菩薩練り供養(4月第3日曜日)
住所 | 〒518-0031 伊賀市長田1931 |
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連絡先 | 0595-21-0467 |
受付の目安 | 8:00〜17:00 |
ご朱印のいただき方 | 略式(セルフ式) |
ご朱印料 | 200円 |
代表的な周辺名所・史跡等
- 紅葉・桜スポット「芭蕉の森」「岩倉峡公園」
- 比自山城跡